【伝承】インタビュー 木原 隆司氏「“協調”できる強靭な国際人を作る」 ①
「“協調”できる強靭な国際人を作る」 ①
木原 隆司(きはら たかし)獨協大学経済学部教授
木原先生は、1980年に大蔵省(現財務省)に入省されて以来、さまざまなグローバル交渉を担当されてきました。その他、外務省、米州開発銀行、アジア開発銀行研究所等の国際機関、長崎大学・九州大学等の研究・教育機関での多彩なご経験を経て、現在は獨協大学経済学部で強靭をとられています。
今回は、長年にわたって国際交渉を積まれたご経験を踏まえ、「グローバル人材育成」をテーマにお話を伺いました。
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学者を目指して大蔵省へ、そして渡米
河合:事前にホームページを拝見して気になった点からお聞きします。「学生時代の目標であった大学の先生になりました」ということですが、その夢を実現されたのは省庁等で働かれた後ですよね。大学を卒業してすぐに大学の先生を目指されなかったのはなぜでしょうか。
木原:一橋大学で金融論を専攻し、恩師の花輪俊哉先生に出会ったことがきっかけで学者になりたいと思うようになりました。ただ、大学院の約5年間無給なのは経済的に辛いので、給料をもらいながら将来学者になる道はないかと考えていたところ、ちょうど大学に大蔵省の役人で学者の人が来ていて、安易に大蔵省に行けば学者になれるんだと思ってしまった(笑)。それで、公務員試験を受けて大蔵省に入省したんです。
河合:当時、大蔵省に入れば学者への道が開けるかもしれないと思われたのは、大蔵省に入れば留学ができるから、ということだったのでしょうか。
木原:はい、当時は今に比べると留学する人は少なかったんですけどね。ただ、留学するには試 験にパスすることが必要で、実は私はその試験に落ちているんですよ。でも、当時の日本では働きながら通える大学院はなかったので、それが可能なアメリカやイギリスで修士号をとりたいという思いが強かった。それで、あきらめずにTOEFLなどの試験を受け続けていたんですが、たまたまある日試験の帰りに秘書課、いわゆる人事ですね、そこで働く同期に遭遇し、彼に海外の大学院へ行きたくてTOEFLを受けているという話をしたら、それから数日後に米州開発銀行への出向の話がきたんです。留学ではないけれどアメリカに働きにいかないかって。
河合:それで米州開発銀行に出向されたのですね。
木原:はい、あのときに彼に出会わなかったら、海外に行けなかったかもしれません。それで米州開発銀行の面接試験を受けたんです が、実を言うと英語めちゃくちゃだったんですよ(笑)。
河合:もともと英語はあまり得意でいらっしゃらなかったのですか?
木原:苦手とまではいかないけれど、リスニングやスピーキングはほぼできない状態でした。何とか面接はパスしたものの、アメリカに行ってからはすべてが英語だったので最初の1年間は大変でした。ただ、ありがたいことに、米州開発銀行には英語ネイティブでない中南米の人が多く働きに来ていたので、銀行の中に朝8時から9時まで英会話スクールみたいなものがあったんです。当時の上司の計らいにより、私だけもう1時間延長してレッスンを受けさせてもらえることになり、それがすごく良かったんですね。
河合:やはり机上の勉強ではなく、仕事で英語を使う中でやっと英語が身についてくる、という感じでしょうか。
木原:そうですね。自分の経験から言うと、1カ月位すると聞こえるようになって、3カ月位すると何となくだけど言いたいことは言えるようになる。1年位すると、リスニングもスピーキングも両方ほぼ問題なくできるようになるのが実感できましたね。だから、学生に、「英語が上手くなるにはどうしたらいいですか」ってよく聞かれるんですが、とにかく「海外へ行け」と言っていますね。
河合:英語を使う必然性を作るということですね?
木原:そうです。結局私は日本で、何年テープを聞いたりしてやっても全然上達しなかったものですから。
河合:何らかの事情で留学できない人はどうしたらよいでしょうか。
木原:私が学生に薦めているのはCNNの音声をネットで聞くことですね。あとは、昔はテレビがなかったので、米軍のFENっていう放送で毎時5分位流れるニュースを聞いて、ディクテーションをしていました。最初は聞いてもよくわからなかったんですけどね。
河合:ニュースはとても速いスピードで流れると思いますが、わかる単語だけでもとりあえず書き取る練習をする、という感じでしょうか。
木原:そうです。リスニングのポイントは「単語が聞き取れる」ということなんですよ。英語だけでなくどの言語にしても、単語がわからないと聞き取れないし意味がわからない。ちなみに、以前フランス語も少し勉強したんですけど、単語と単語がつながりすぎて、どこまでが一つの単語かよくわからなくて挫折しちゃったんですね。だから、単語を聞き取ろうとするディクテーションは英語学習に効果的だと思います。所々の単語がわかれば全体の意味を類推できます。
悩むぐらいなら、やってみよう
河合:ちょっと話題を変えます。ご出身の一橋大学商学部で金融を専攻されたということですが、今は経済学を研究されていますよね。金融論も経済学の一部ですが、経済学の方を本格的に勉強することになったきっかけは何だったのでしょうか。
木原:商学部でとれる分野が、経営学・会計学・金融論の3つなんです。最初は、商学部に入ったからには会計かなと思って本屋で簿記練習帳を立ち読みしてみたのですが、本を開いた途端に立ちくらみがしてその場に座り込んじゃったんですよ。そのとき体調が悪かったのかなと思って後日また本屋で立ち読みしたらまた同じことになり、これは体質的に合わないと思った(笑)
河合:数字が多すぎたからでしょうか。
木原:いや、というより赤とか青の罫線が生理的にだめだったみたい。それで、会計が無理なら経営かなと思って経営学の本をとりあえず読んでみたんです。経営学というと当時ドイツ経営学が主流だったのですが、哲学的すぎて、私の頭ではついていけないと思って諦めてしまった。残るは金融論ということで、金融論をやるにはマクロ経済学を勉強する必要があったので、当時サムエルソンの経済学が流行っていたんですけど、そのサムエルソンを 読むための経済学っていう本があって。
河合:ピケティを読むための経済学、みたいな。
木原:そう、あんな感じですね。それを読み始めたら、「なるほど、これなら理解できる」と思って、それで金融論のゼミに入ることに決めたんです。正直に言うと、消去法で金融論に決めたんですね。でも、結局マクロ経済学ばかりやっていました。
河合:消去法とは、イメージと違って意外です(笑)。ホームページで座右の銘が「悩むぐらいなら、やってみよう」とありました が、まさにご専門を決めるにあたって一つずつきちんと検討されたことがそうなのですね。
木原:はい。とりあえず手にとってみて、これは無理だ、みたいに消去法で(笑)。ただ、座右の銘にしている一つの理由は、実は私 が一度鬱病になったことがあるからなんです。
河合:それはいつ頃のことでしょうか。
木原:証券局の課長補佐だったときに、1991年ですね、証券不祥事というスキャンダルがありました。私が証券局の内示を受けた翌日にその損失補填の話が新聞に掲載されたんですね。その事件の関係で国会は2カ月位毎日開かれていましたし、証券取引法も大幅に改正され、1カ月位平均2時間睡眠の日々が続きました。対応に追われているとき、つまりハイになっているときはなんとかもつんですけど、それが終わってからガタッときたんですね。どういう状況になるかと言うと、延々と一人で悩んでしまうんです。同時に自分はだめな奴だって自分を責めてしまう。そのときからですね、「悩むな」と自分に言い聞かせるようになりました。悩んでも物事は進まないし、それよりはとりあえずやれるんだったらやってみて、それで多少マイナスになったとしても、あのときやれば良かったのにって悩むよりはずっと良い。そう思うようになりました。
河合:そのようなことがあったのですね。その後どのように回復されたのですか。
木原:やっぱり鬱は簡単には回復できないですよね。数週間郷里で休むことになったのですが、やっぱり家にいても仕事が気になって仕方がなく、かつ仕事ができない自分が嫌で嫌で…、っていう精神状態だったので、休んでいてもすぐに役所に電話をしてしまった(笑)
河合:「どう、仕事はちゃんと進んでる?」みたいに?
木原:そうそう。あの時は役所に大分迷惑をかけたと思いますね。でも結局1週間位で職場に復帰してしまったので、なかなか回復しなかったですね。結局その次の人事異動のときに交代させてもらう、ということになったんです。
河合:ご経歴を拝見すると、証券局の次は「世界平和研究所へ出向」とありますが、仕事の内容ががらっと変わったのでしょうか。
木原:そう、がらっと変わった。簡単に言うと、世界平和研究所とは当時中曽根さんが総理をやめられたときに作られたシンクタンクで、多くの役人や民間の人が出向していました。ただ、実のことを言うと、その次にジュネーブに行くことがこの時点で決まっていたんですね。日本にいたらどうせ例の事件のことを気にし続けるんだろ、ってことで(笑)。
河合:ジュネーブに出向されるまでの「つなぎ」みたいな感じだったのでしょうか。
木原:そう、つなぎ。でもこれがすごく良かったんですよ。そこで沢山リサーチをさせてもらう機会に恵まれ、はじめて論文らしい論 文も書きました。ここに行っていなかったらそんなこともできなかったかもしれませんから。
河合:では、ここから少しずつアカデミックな方向にシフトしていったのですね?
木原:そうですね。それで、この研究所で若い人たちと、まぁ私も若かったですが、わいわいやりながら色々なプロジェクトに取り組 んでいくうちに少しずつ鬱が治っていった。
河合:気づいたら治っていた、と?
木原:気づいたら治っていた。